岡本寺のご案内

観瀧山 岡本寺の歴史

岡本寺の由緒

当山は、山号を観瀧山(かんりゅうざん)、寺名を岡本寺(こうほんじ)と称し、曹洞宗に属する禅寺です。

平野は古くから渓水に温泉が湧出することで知られ、近世には周囲に20を超える温泉宿が建ち並び、妙見山への参拝者や湯治客によって「多田平野温泉」として栄えました。

当山はこの温泉近くに建てられ、寺辺を流れる塩川に瀧(滝)があったところから山号が観瀧山になったといわれます。

『岡本寺由緒書』によると、鎌倉時代の元亨4年(1324)11月24日、多田院政所の持観沙弥が栗林を開いて地蔵堂を建て、行基(奈良時代の僧668~749)作の地蔵菩薩像を安置し、「岡本寺」と称したのがはじまりとされます。

その後、堂宇が荒廃したため、安土桃山時代の天正年間(1573~1592)開山語節要言(ごせつようごん)大和尚が再興して「平常院」と改めました。

江戸時代の元禄8年(1695)、量品観寿首座徒弟、元童の慈母寿昌院智仙比丘尼より土地の寄進を得て改築、寺名を元の「岡本寺」に改称します。

さらに、江戸時代の安永5年(1776)、六世直指玄端(じきしげんたん)大和尚が堂宇を改築します。明治3年(1870)には、二十七世祖肇卓宗(そけいたくしゅう)大和尚が改築。

昭和30年(1955)三十二世大能正惠(だいのうしょうえ)大和尚が就任します。正惠大和尚は、昭和52年(1977)に霊園墓地を完成させ、昭和59年~62年(1984~1987)には「本堂・庫裡の改築、鐘楼を新築」し、昭和62年落慶法要を厳修する大事業を成し遂げました。

「墓不足」の時代背景を受け霊園墓地は瞬く間に埋まっていきました。しかし、平成に入って徐々に「家の墓の存続が難しくなる方」の増加がマスコミなどで取り上げられるようになります。また、実際、岡本寺の檀信徒でもそのような相談が出始め、平成15年(2003)共同墓建立に踏み出します。その年、現住職:大道(平田)信活(だいどうしんかつ)和尚に住職辞令が下り、共同墓は年末に完成、翌16年春彼岸には共同墓「空去来・舎羅林堂(くうこらい・しゃらりんどう)」を落慶します。その直後4月に晋山式を厳修し、三十三世大道信活大和尚となります。平成19年(2007)には、どなたでも利用できるバリアフリーのお手洗「洗心堂」を駐車場内に建立しました。さらに平成27年(2015)樹木葬地「百日紅苑(ひゃくじっこうえん)」を霊園内に併設し、現在に至っています。


本尊様

本尊はお釈迦様。

釈迦如来坐像=像高32センチ、法界定印を結んでおられます。脇侍は観音菩薩と地蔵菩薩。この地蔵菩薩がかつてのご本尊様で、奈良時代の僧:行基作だとの伝承があります。

本堂
本堂
霊園(南区画)
霊園(南区画)
大正時代に作られた山門/鐘楼
大正時代に作られた山門/鐘楼
庫裡・小堂
庫裡・小堂
舎羅林堂
舎羅林堂
百日紅苑
百日紅苑
洗心堂
洗心堂